父と三途の川と鵠のこと

今月の頭に父が亡くなった。

初めての一番近い人物の死だったと思う。


「生と死」を作品のテーマにしているけれど、いままでは想像や空想で考えていたことが

少しだけ見えた気がしたので自分の為の考えのまとめとして書いてみたいと思う。

いろんなケースがあると思うのでこれはあくまでも私の父の場合という事で

お許しいただきたいと思う。


父は死期がわかっていたようだ。

耳も最後まで聞こえていたようだ。



私は「生と死の境目の辺り」というぼんやりしたところを作品のテーマにしているのだけど

どうやら父はその辺りに今まだいるようだ。


死から7日かけて三途の川まで歩いていくらしい。

(宗派によって違うし、国によっても考えは違う)


川を渡るという言い伝えは世界各国にある。

・エジプトでは天国の入り口に川があって呪文を唱えると渡し守が船を出してくれる。

・ギリシャではスチュクス川をカロンという渡し守に1オロボスの渡し賃を払って渡る。

・北欧はヨル川。橋がかかっており金が敷き詰められていてモットグッドという美少女が橋の番をしている

・古代ペルシアのゾロアスター教では、この世から浄土の入り口まで「チンバット橋」といわれる長い橋がかかっていて、渡る人の罪の重さによって幅が変わる。

善人が通るときは幅は広くゆったりと楽に渡れるが・悪人が通るときは糸のように細くなり下にある地獄に堕ちる。



日本ではやはり「三途の川」だけれども別名は「三瀬川」

三種類の渡り方があることや流れの違う瀬が3つあるからだとも言われている。

イザナギは真ん中の瀬で穢れを落としたのだよね。


3つの渡り方の種類はというと

上流は「清水瀬」。膝下くらいの深さで罪の少ない人が渡る。

中流は宝石でできた橋が架かっていて善人は橋を渡る。

下流は「強深瀬」といわれて激流。



だけれども私はずっとここに渡り鳥がいるイメージがある。

古墳の水鳥埴輪やヤマトタケルの白鳥伝説(鵠)は死後の世界に向かう大事なキーワードの様な気がしてならないからだ。


これは私の勝手な妄想ではなくて

韓国・金海市の国立金海博物館に鳥形土器があるのだけれど。

その展示パネルには『三国志魏書』「東夷伝」の「以大鳥羽送死 其意欲使死者飛揚(大鳥の羽を以て死を送り、其の意は死者をして飛揚せしめんと欲する)」が書かれている。

死者が黄泉の国へ飛んでいけるように、大鳥の羽にそうした気持ちを託すことを表した。


この考えは日本にも伝わったのか別に発生したのかはわからないけれど

古墳時代中期(4世紀末)以降に雁や鴨類などの水鳥形埴輪が出現してくる。

古墳の水際(濠の中島や造り出し)に置かれていることが多いことから

「水鳥形埴輪は渡り鳥が大空高く飛び去って行く情景から死者の魂をのせてあの世へと運び去る姿を模したもの」とされているらしい。


この水鳥埴輪やヤマトタケルの「鵠」が私の作品のモデルになっているのは間違いない。



そして話を父に戻すのだけれど

最後の一日は娘たちと孫やひ孫がワイワイガヤガヤあつまって、たわいもない話を父のそばでしていた。

そんなにぎやかな私達の話を父は聞いていたようで亡くなったときの顔は微笑んでいた。


現世の行いがどうとかそんなことは娘にとってはどうでもよくて

無事に安心して楽しくできれば愉快に黄泉の国に行ってほしい。

亡くなってからすぐに備えた「枕飯」や「枕団子」はこちら側での最後の食事であり

道中のお弁当とおやつなのだそうだ。

我が家では父の大好きな塩豆大福も持たせた。

どうか塩豆大福をほおばりながら「鵠」の背中に乗って、三途の川の景色を上空から楽しんでもらいたい。


殯(もがり)の話も書きたかったけれど、それはまた長くなるので別の機会に。

それから母と姉たちと4人で和装の喪服で葬儀を出せたのをとてもうれしく思った。

父は和服が好きだったからね。

木村洋子 陶芸家と古墳少々

木村洋子の陶芸と古墳にまみれた日々をつらつらと。 プロフィール 群馬県生まれ 陶芸家 多治見工業高校専攻科卒 卒業後 岐阜県セラミックス研究所勤務を経て陶芸教室講師となる。 現在は各務原の「せいしん工房」で「木村洋子のツキイチ陶芸教室」を開催 2019女流陶芸展 女流陶芸大賞入賞(入選5回) 2019菊池ビエンナーレ入選 女流陶芸準会員

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